平山郁夫 ← クリック甲斐小泉駅にはこんな美術館があります。

シルクロードは仏教が、生まれた地。菩薩と如来の石仏が多く飾られているが、日本の物とは違うみたい(顔)??
でも般若心経は、存在するらしい?
勉強不足!

電車の中で子供を連れた若い女性が手を振ってこちらを見ている!
思わず赤面
気づくと元、会社の後輩 ダセ~
シクジッタ(-_-;)
- 2012/04/30(月) 19:14:08|
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逸見氏甲斐源氏は、大治5年(1130年)に源義清(武田冠者)・清光(逸見冠者)が常陸国より甲斐国市河荘に配流され甲斐各地に土着した一族。清光は官牧の発達していた現在の北杜市域(旧北巨摩郡域)の逸見荘へ進出し、清光の長子光長が逸見姓を称する。
平安時代末期、光長は一時的に甲斐源氏の惣領であったと考えられているが、甲斐源氏は現在の韮崎市域に拠った弟信義が始祖となった武田氏が主流となり、武田氏は甲斐源氏一族を率いて源頼朝の挙兵に参加し、治承・寿永の乱において活躍する。『尊卑分脈』には直系子孫の系図が見られるが、『吾妻鏡』などの記録には光長はじめ一族の動向は見られない。信義の4男有義や光長の弟安田義定の子定長が逸見姓を名乗ったといわれ、有義の子孫は吉田氏や小松氏、万為氏を称したという。
鎌倉時代の動向は記録に乏しく武田氏同様に不明な点が多いが、『吾妻鏡』によれば和田合戦で逸見五郎らが和田義盛方について北条氏と敵対している。また、『尊卑分脈』によれば逸見基義、惟義、子義重が承久の乱に参加しており、武田信光に従っていると考えられている。基義は恩賞として摂津国三条院を与えられ、義重は美濃国大桑郷を与えられている。惟義は和泉国守護となっており、義重の子孫は大桑氏を称した。逸見氏の直系子孫は摂津や美濃など西国のほか若狭国、上総国など武田氏が守護職を得た諸国へ移り被官化したと考えられており、一部の庶流子孫が甲斐に残留していたと考えられている。
南北朝時代には安芸国守護武田信武・氏信に従い軍忠状を与えられている逸見有朝が見られるほか(「小早川家文書」)、武蔵野合戦に参加しているものもいる。
室町時代には上杉禅秀の乱において守護武田信満が乱に加担して没落し甲斐では国衆勢力が台頭するが、有義系の子孫と言われる逸見有直は鎌倉公方足利持氏と組んで勢力を及ぼし、有直は甲斐守護の座を幕府に要求したが、鎌倉公方の勢力の増長を嫌う将軍足利義教に拒絶され、武田信元、次いで武田信重が甲斐守護として復帰した。戦国期には武田一族の今井氏が逸見姓を称している。
また、戦国時代の逸見一族としては、小弓公方足利義明の家臣逸見祥仙や、若狭武田氏の重代の家臣でのちに独立し、また織田信長に下った逸見昌経などが知られる。また逸見氏の一族として甲斐武田家重臣の飯富虎昌の飯富氏や、安土桃山時代に活躍し、昌経の没後にその遺領の一部を継承した溝口秀勝がいる。
江戸時代、逸見四郎義年(1747年 - 1828年)は多摩3大流派の1つ甲源一刀流を興す(多摩3大流派とは、甲源一刀流・天然理心流・柳剛流の総称)。逸見四郎義年は甲斐源氏の逸見家19代目当主にあたる。
Wikipedia参照
北杜市にはこんな歴史的な財産があった
ずごい!!
谷戸城跡


- 2012/04/30(月) 18:52:40|
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宮城県仙台市宮城野区に一度来てみてほしいと、知人に言われたが予定が合わず断念
次回、予定をつけてお伺いします。
ところで、重点課題とレジャーではお財布の出処が違います。
いかに、経費節減を考えゴールデンウィークを乗り越えるか!
そこが、前期の行動を左右します。
金を使わず、過ごす方法
1.携帯電話を切り、下界からのコンタクトをシャットアウト!
2.車を使わず、遊ぶことを見つける! チョット厳しい
3.食事は自炊
4.買ったが読まなかった本を部屋のカーテンを締め、ひたすら読む
さすがに、精神状態が不安定になってきた!!
知人に電話
今日空いてるら
良いとこ連れてってやる(悪の誘い)

綺麗な西洋タンポポでもここは、日本の山梨県北杜市 外来種って怖いね!!自然に馴染んでる

金生遺跡
縄文時代晩期の遺跡
この時代の文化は、より生に対する意識が強く未開拓な文化が伺える
原始的だが縄文時代って氷河期以降~弥生時代までだから凄い年月が経ってるんだよね!何万年です
この数千年の人類の進化って凄いね!フェースブックだもんね!ハハハハ
こんな集落が、北杜市の到ところに分布してたみたいです。

- 2012/04/30(月) 18:32:06|
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